2017年5月26日 (金)

心の治癒力を研究する(36)

133ページの恐怖に直面してもおどおどしなくてもいいことを学びました。恐怖や恐れも純粋なエネルギーなのです。それによって良い変化が起きることさえあります。ステージ恐怖によって、かえってよい話ができたこと、戦場での恐怖が勇気へと変わったことなどです。私などは脳出血した時、自分の長い間の疲れが癒され死へと向かってとても気持ちが良かったことを体験しています。

状況がどんなものであれ、恐怖をつかまないこと、執着しないことが必要です。次は、「強力な恐怖を解き放つ」という副見出しに進みます。閉所恐怖、広場恐怖、高所恐怖など病名がつくほどの恐怖は、恐怖のための恐怖といえます。恐怖に執着することが恐れを高めます。瞑想や観想などでプラスのイメージを鼓舞します。これらの恐怖を克服するように穏やかに自分を訓練できます。

生活の中で一歩づつ自分を訓練します。楽にできる範囲で訓練します。広場恐怖であれば少しだけ家の外に出るのです。(つづく)

2017年5月25日 (木)

素問を読む(188)「労風や腎風や風に由来する病がいろいろとあります」

 現在は、310ページの終わりから2行目まで行いました。房事過度や過重な労働の後で、風に中てられた労風と言う症状では、呼吸療法と整体療法を持って対処します。若い精気のある者は三日、中年の者は五日、老年の者ならば七日治療を行いますと、口又は鼻から弾丸のような青黄色の膿のような汁を咳とともに吐き出します。(ここまでが前回です。)出ない時には膿汁が肺に溜まって肺を傷害し、死ぬことがあります。

黄帝が言われます。腎風という病がありまして、この患者は顔面が腫れ上がって、言葉も聞き取りにくくて濁っています。この場合は、刺法を加えるべきでしょうか?岐伯が答えます。正気が虚している患者に刺法を加えてはなりません。もし誤って刺しますと、五日後には反応が起こります。黄帝が言われます。どんな反応が起こるのでしょう。岐伯が答えます。

反応と申しますのは呼吸が浅くなり、発熱することがあります。発熱しますと、胸や背から頭まで汗が出て、手のひらが熱を帯び、口がカラカラになって水がやたらと欲しくなり、小便が黄色になって目の下が腫れ、腹がゴロゴロと鳴り、身体が重くて歩き難くなります。女子では月経が閉止し、胸苦しくて食べ物が摂れず、正しく仰向けになって寝ていられません。もし正しく仰向けに眠ろうとすると咳が出てきます。

これを風水といいます。詳しくは、『刺法』の中に述べられています。黄帝が言われます。どうかその説を聞かせていただきますか?岐伯が答えます。邪気が集まるところは、必ず正気が虚しています。陰気が虚しているところには、必ず陽気が集まります。ゆえに正気が虚して呼吸が浅くなり、陽気が集まって発熱し汗が出るのです。小便が黄色であると言うのは、下腹の中に熱があるからです。

「素問・新釈・小曽戸丈夫」たにぐち書店、平成18年

2017年5月24日 (水)

唯識入門講座で心を実践的に考える(3)「経絡や気は、ことばで捉えるとむなしく響く」

 イギリスの哲学者であるロックは、物質は単に物質だけの属性を見ているのでなく、色のように心に由来する属性も見ているとしました。西洋の哲学者でも心が影響して物質を見ているのだという方もいたのです。物質だけが外界にあると考え、その物に執着を起こすのが苦しみが生まれるのです。執着して求めるので、欲望が遂げられず苦を生み出すのです。欲望が遂げられても「執着」が引き続いてあるとまた苦を生み出すのです。

今日は、18ページにある「自分は存在する」というのは、思い込みでしょうか。自分の手は、目で見つめればここにあります、と言えます。それでは、自分というものは存在するでしょうか、と横山先生は問いかけます。自分という言葉に対応するものはないのです、と先生はいいます。自分に対応したものは、探しても見つからないのです。「自分」という言葉の響きだけがあるのです。

自分の手や自分の顔や鼻や目などは、言葉に対応するものがあります。ですが「自分(じぶん)」は曖昧模糊としており、言葉の響きだけがあるのです。ここで静かに心を落ち着けて心の中に住して観察します。この心の中から観察するのです。「全人格的思惟」のことであり、坐禅や禅定で言い表される方法です。自分は客観的に存在し、その立場から観察するのではありません。(それが科学的な立場だと言うかも知れませんがそれは不可能なことです。)

「静かに心を落ち着けて心の中に住して観察する、つまり坐禅をすること、ヨーガを修することが東洋の観察法なのです。ヨーガとは、「物事を静かに見る観察方法」なのです。身体をくねくねと曲げたり伸ばしたりするのがヨーガの本質ではありません。古くからインドで起こったもので、大乗仏教の瑜伽行派では、この観察方法を元に唯識思想を打ち立てたのです。「ただ心しか存在しない」という結論になったといいます。

自分は心の響きに過ぎないと言うことから無我が強調されました。無我であるならば心は楽になります。しかし深層心である阿頼耶識(あらやしき)の中に様々な種子が潜んでいるので、簡単に無我となることもできません。様々な病気になる種子も阿頼耶識の中に存在します。唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つの識(心)からできています。

時間も今何時ですかと聞かれたら、今は夕方の五時です、などと答えます。確かに曖昧な答え方では間違いはないのですが詳細な刹那の時間ではありません。「今」というのは、言葉の響きだけがあるだけでちゃんととらえているわけではありません。「空間」にしても自分の外に必ずしも空間があるとは言えません。自分の外に出た経験がないから、何とも癒えないのです。要するに言葉で考えることであり得ないものを存在させることができるようです。

言葉で考えたものを唯識では、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)と言うそうです。それを唯識では、全く存在しないというそうです。(22ページ)

「唯識入門講座、本とDVDで考える本当の生き方」横山紘一、著、大法輪閣、2010年

2017年5月23日 (火)

全人格的思惟つまり禅定を通して純粋生命が開かれてくる

 上の言葉は、「生命とは何か・ブッダをとおしての人間の原像(玉城康四郎、著、1995年、法蔵館)の出足に書かれている言葉です。学校の勉強や生き抜くのに必要な学習、息抜きで本を読む時も「全人格的思惟」を使っているとはいえません。「全人格的思惟」とは何なのかといえば、坐禅であり禅定です。お坊さんが道場で足を組み呼吸を調え心を落ち着けるものであります。玉城先生は、仏教学者であるだけに禅定の効果と効能をよくわかっていました。

禅定などは私は経験したことがありませんし、そこまではやれなくとも、簡単な坐禅、禅定を体験してみたいです。ほとんどラジオの音を耳にし、考えもそちらに聞き流しそうな毎日です。本当に禅定を経験したいならラジオやテレビなどを消して、自分の呼吸を注意します。様々な電波が行き交う時代です。コンピユータのインターネットでも多くの電波を使います。それらが皆無であることは不可能であるにしてもできるだけ静かな環境を選び坐禅をします。

始めは5分から始めます。色々な邪念が様々に浮かびます。それに影響されずに呼吸を調えます。影響されてもいいのです。このような状態を続けることで、純粋生命が開けてくるようです。このことが何を意味するかよくわかりませんが、生まれる前にお母さんの胎に誕生したときのような純粋生命を感じとれるのでしょう。その時御使いたちは声を合わせて賛美したと新約聖書にも書いてあります。もちろんこの記述はイエス・キリストの誕生についての文面ですが、どのような人であれ喜びで迎えられると言うことも意味しているはずです。

毎日、新聞やテレビのニュースで見る多くの人々は、生きて行くために現実的で狡猾となっています。狡猾とは、悪賢いことです。そうでなければ生きていくこともできない時代であるようです。そのような人が上層部で支配している国は、人々のやる気を削ぎます。(つづく)

2017年5月22日 (月)

私の脳の機能と構造(57)「脳出血の障害を知るには、この基礎知識が必要」

 今日は、「脳から末梢に向かう下行性伝導路」(82ページ)に入りましょう。大脳でプログラミングされた運動指令は、中枢神経系最大の神経経路である皮質脊髄路を通り脊髄神経、末梢器官へと伝えられます。大脳皮質で企画・プログラム化された情報は、脊髄神経へと伝えられます。このルートを皮質脊髄路(ひしつせきずいろ)といい、錘体路(すいたいろ)とも言います。皮質脊髄路は、約100万本もの軸索を含む中枢神経系最大の経路の一つで大脳皮質の運動野に由来します。

これらの皮質脊髄路が脳出血で傷を負ったのですから、右の半身が不随(ふずい)になるのも無理からぬことです。私の左半身を冷静に眺め、それを左右二倍にすると、齢の割には、健康であれば身体は良い状態であるなあ、などという馬鹿なことを考えています。右半身の痙性麻痺(けいせいまひ)が私のQOL(生活の質)を著しくおとしめています。大脳皮質を出た神経線維は、視床にある内包(ないほう)を通り、中脳の大脳脚(だいのうきゃく)を過ぎ延髄の下にある膨らみ(錐体・すいたい)に集まります。

それから脊髄を下行します。中脳の赤核を出発する赤核脊髄路もあり、脊髄に入ってから錘体路と合流するこの神経経路は、哺乳動物では大きな運動制御の役割を持ちますが、人ではそれほどではありません。錘体路は、大脳皮質からの指令を正確に末梢へ伝える役目があります。そのため径路のどこかで障害があると運動や動作に異常が現れてきます。私のように脳の左側の錘体路を脳出血で障害すると、右半身がマヒします。運動麻痺と感覚麻痺と痙性麻痺です。この内、運動麻痺は、錘体路の障害です。

この他に腱反射の亢進もあります。バビンスキー反射は、足の裏の踵よりから外側をこすると親指が背側に屈曲してしまう異状のことです。私では極端にバビンスキー反射が出てきませんが、それはやり方が違っているのかもしれません。運動麻痺が起こる部位やその広がり方は傷害部位によって異なるとありますので様々であると言えます。どちらにしても錘体路の障害を知る手掛かりになります。

一方、不随運動や筋緊張など錐体外路症状といわれる症状もあります。私の右半身の筋緊張は、錐体外路症状なのかも知れません。ブルンストロームのマヒ回復段階によると第3段階の痙性麻痺と共同運動段階から一部、第4段階の共同運動からの離脱あたりだと思います。3,4段階くらいで止まってしまう方も多いそうです。大脳の左半球に傷害があるとき、右半身にマヒが出てきます。これは脊髄へと向かう錘体路を通った軸索が延髄と脊髄の境目で左右交叉するからです。(錐体交叉)

「ぜんぶわかる脳の事典」坂井建雄、久光正、監修、成美堂出版、2011年

2017年5月21日 (日)

「生命とは何か」(ブッダを通しての人間の原像)を読んで

 法蔵館から出ている「生命とは何か」(玉城康四郎、著、1995年)という私から見れば、少し高度で硬い本があります。玉城先生は、亡くなって日も浅い方です。東京大学インド哲学科を1940年に卒業され、仏教思想を研究された方です。その239ページに「幽体の経験の意味」という副見出しがあります。なぜその副見出しに注目したかといえば、まだ発表していない自分が書いた「悠久の時を旅する旅人」と題するエッセーに、同じ論調のことを載せたからです。

幽体といえば、肉体に対するものとして我がエッセーには、書きました。人は死後、幽体になるのではないか、そうであればお墓や仏壇に入ることはなく、肉体の時よりも自由に活動できるはずだと書いたのです。彼らは死後、仏教で言う「中有」といわれる「中間期」を過ごすのです。そこでは、肉体でいた時の病気や怪我も癒え、健康体で暮らすのです。これは、中有であり、中間期ですから癒しの時で、今日では数十年ほどであるそうです。

それ以後は、幽体で暮らしていた人は、再び、この世に肉体で帰ってくると言われています。毎年見る桜でも去年のものとは、微妙に違うように新しい肉体も違います。容姿、経歴も違いますが、核にあるその人はその人です。玉城先生は、「魂の核」という言葉を使っていますが、私のエッセーに書いた言葉も「魂の核」でした。人が輪廻転生するごとに、容貌や経歴や人格なども微妙に異なってくるはずですが、核にあるその人はその人であるという意味です。

ここで幽体とは何かと言うことですが、「臨死体験」をした時の自分の寝ている肉体をまざまざと見ているもうひとりの私こそが幽体であるといえそうです。幽体側からは自分の肉体を見ることはできますが今死にそうな肉体側からは幽体を見つめることができません。死後、活躍するのは幽体で、もともと生きている肉体の中に微細な身体な体として内在しているのです。

紀元前の遠い昔、肉体の外に微細身体というものは、知られてきました。鍼や灸もそのような目には見えない微細身体に行うものとして発達してきました。「生命とは何か」と問う時に16世紀以降の西洋医学の身体観ははなはだ幼いと言えるかも知れません。)

2017年5月20日 (土)

「奇経八脈攷(こう)」を考える(45)「衝脈の循行ルートはどうなっているの?」

 今日は、153ページの参照を読んでいきます。足の少陰腎経のような下肢の経脈は、実は、腎経ではなく、衝脈の分枝であるということなどを本文から学びました。参照の①は、頏顙(こうそう)です。これは体の部位で、咽喉の上部で後鼻孔と咽頭がつながるところ、とあります。②体幹の後の脊椎間あたりと前の少陰腎経の喉、胸部、腹部あたりと会陰、胞中付近を衝脈は巡っていき、この五臓六腑の海である衝脈は下肢に分枝を伸ばしています。これは衝脈のあくまで分枝なのでありますが腎経と似ています。

③内踝の後の属ー属というのは、「脛骨が附骨(足背の骨)と相連なる処を属といいます。」アキレス腱が付着する踵骨隆起の粗面のあたりを指します。④衝脈の下るものは、少陰の経に並び、復溜、水泉、照海、大鐘等の穴を経て、足下の湧泉に入るなり」と馬元台の注にあるそうです。⑤『類経』の注に、「足面(足背部)を跗という。跗の属は、足面の前後はみな属なるをいうなり。」とあります。

⑥太谿付近の脈動がはっきりと感じとれれば下腿に温かさと気血が届いているのです。⑦別絡が閉塞すると足背の血脈は動かなくなり、中心に向かって冷えが進んで行きます。(解説)ここで154,155ページには、小林先生がまとめて書いてくださった衝脈の図が載せられています。衝脈のルートは、かなり複雑です。胞中(子宮、丹田)から督脈・任脈・衝脈は起こります。胞中から会陰に向かいそこから背裏(脊柱管)を流れます。

会陰から一方は宗筋(生殖器)を通り、鼠径部の気衝に出ます。そこから上下に分かれまして、腹から胸部、口唇、咽喉、顔面と行きます。一方は下肢に下り内側を通り、内踝の後部至りて2つに分かれます。下るものは少陰の経に並び三陰に浸み込み足下に至るとなっています。前に向かう分枝は、斜めに踝に入り、跗の属に出で跗の上を循り大指の間に入るとなっています。体幹は五臓六腑の海です。私のイメージでは、体幹を包むように気の海が囲んでいます。

156ページの本文に入ります。「(6)王海蔵(好古)はこう言っている。手の少陽の三焦は、相火(心が主る君火を補佐する宰相(さいそう)の火)であるとともに、一つの腑でもある。右の腎の命門もまた相火である。心包主(手の厥陰の心包絡)もまた相火の名で呼ばれている。相火に属するこの三者の脈はみな腎の部位(右の尺部)において診断される。

右の尺部においてあらわれるこれらの脈は、「生気の原」(腎間の動気、三焦の原、丹田)から発する元気の出入する「生気の門」となる。この「生気の門」から出発した元氣は、臍下(下焦)を統治してから、三つに分枝して上昇する。臍を挟み、天枢穴を経過して(中焦を統治し)、さらに上って両乳の間の壇中穴に至る。(上焦を統治する)。このようにして元氣は、上・中・下の三焦と連携しているのである。」ここまでで後は来週の土曜日です。

「奇経八脈攷全釈」李時珍、編著、小林次郎、訳注、燎原書店、1991年

2017年5月19日 (金)

心の治癒力を研究する(35)「悲しみも苦しみも幸福と同じように覚りの道です。]

 自己を笑い、また自分の問題を笑うことができれば、癒されるとトゥルクさんは、言います。楽しみことを学び、問題を負の方向から見るのをやめ、何につけても積極的になることができれば素晴らしいです。総じて言えば、プラスの思考をし続けることです。チベットのドドゥプチェンは、そのように生きている方は、「心は柔らかくやさしくなる。…心はいつでも幸福の喜びに満たされるようになる。」と言っています。

これを悟りの修業と呼んでいます。幸福と苦しみを悟りに変えていく修行だからです。これを続けていくと病さえも自動的に消滅してしまうと言っています。なぜなら全身を流れるエネルギーの障害がなくなり心が平和になるからだというのです。良いことであれ、悪いことであれ、すべてを受け入れるならば素晴らしい幸福を得られるのだから。バカボンのパパも言っています。「だから、苦しみがひどくとも、本当にそれでいいのだ。」これはバカボンのパパではなくて、ドドゥプチェン氏の言葉です。

インドには、胡椒(こしょう)や香辛料と糖蜜(とうみつ)からできたお菓子ラドゥがあるそうです。苦しみを悟りへの道に変えるための土台は、ラドゥをなめつづけるようなものです。胡椒があっても糖蜜もあるのです。どちらも受け入れるのです。悲しみも必ずしも負の体験ではありません。オペラの哀歌は悲しみもあり、美しくもあります。悲しみも見方によれば悪いものではありません。「問題には実体がなく、空であることに気づく」(129ページ)の副見出しに入りましょう。

悲しみを嫌がるのではなく、それを受け入れ、悲しみの解放空間と一体になればいいと著者であるトゥルク・トンドゥップさんは言っています。リラックス呼吸をして、そこにとどまるのがいいようです。できるだけ、ゆったりとして悲しみそのものの感覚を味わいなさい、ということです。悲しみと一体になり、受け入れ、一つになりなさいと言うことです。

肉体的な痛みも同じように対処できます。強烈な痛みは、医者に診てもらうべきです。ほかのセラピーや治療法があるかも知れません。痛みを負のものと考えないことで、軽くなるかもしれません。痛みを嫌悪感で見るのをやめ、痛みと一体になるならば、より軽くなるでしょう。苦しみには実体がないと言うことを思い出しましょう。「恐怖とつきあう」という副見出しに入りましょう。恐怖というよりある種の恐れと言い換えてもいいかもしれません。

それらは確かにあります。でも恐れも友達であり、助けてくれる存在です。恐れの正体をはっきりさせるのは、いいことです。問題の鍵を見つけ出し、癒しに向かって行くことができます。恐れは心から湧きあがってくるものです。不安も実体はなく、心から生み出されます。それに執着してきたので、恐れや不安が大きくなってきたと言えます。

恐怖や不安に負のラベルを張る必要はない、とトゥルクさんは言います。もともとそれらは純粋なエネルギーだそうです。(133ページ)

「心の治癒力―チベット仏教の叡智)トゥルク・トンドゥップ、著、永沢哲、訳、地湧社、2000年

2017年5月18日 (木)

唯識入門講座で心を実践的に考える(2)「常識を疑ってみよう」

本当は、昨日、行うべきはずでしたが、今日の木曜日に今週だけは変わりました。先週は、「初めに」だけを読んでみました。今日は、「第一章、〈唯識〉を学ぶ」に入ります。その「第一節、〈唯識〉の教理」、「一、唯識思想への入り口」…から先に進みます。唯識というと堅苦しい響きですが、ただ心があるということです。

心を現代科学のように客観的にとらえようとしても、心はいつも私たちとともにあります。自分から離して客観的に考えようとしても、心はそういうふうにいかないのです。西洋哲学に素朴実在論というのがあるそうです。「認識する通り事物は外界に存在する」という素朴な考え方です。それは常識ともいえる考え方ですが、それが迷いと苦しみの根本原因であると著者の横山紘一先生は言っています。

「あの人が憎い」と思って、あの人と対立したとします。「憎い」はその人の感情であって、あの人自身ではありません。あの人は、「憎くもなく、憎くないことでもない」といったニュートラルな存在です。仏教ではしばしばこのような表現を用います。それでもそのような考えができず、「あの人が憎い」という常識的な考え方に落ち着きます。

三人の人がリンゴを見るとした時、常識からすれば目の前にある一つのリンゴをそれぞれ見ていると考えます。これが常識です。リンゴは外界に存在しているとするのです。それを見ながら、ふっと考えたことがあります。「私が見ているリンゴと他の人が見ているリンゴは同じなのか。」という考え方です。つまりリンゴは外界にあるのか、それとも私たちの内なる心によって創られているのかということです。

常識的に考えるとリンゴは外界にあるとなりますが、そうなるとリンゴや若くきれいな女性や富や財産などが永久不変に有る事になり、執着(しゅうちゃく)という苦しみが起こりかねません。「物」(や「人間」)に執着するのは、私たち人間の弱点かもしれません。執着は欲望を生みだし、欲望が得られないと(たとえ得られたとしても)苦しみを生み出します。これを「求不得苦」という得られない苦しみです。

著者の横山先生は、常識や思い込みを捨てるのが唯識思想への入り口であると述べています。「非常識」を身につけるといえば、アウトローのような感じを受けますが、真実を求める段階を行くには必要な考え方です。

「唯識入門講座・本とDVDで考える本当の生き方」横山紘一、著、大法輪閣、2010年

2017年5月17日 (水)

素問を読む(187)「風厥(ふうけつ)とは、どんな症状?」

 今日は、「評熱病論篇第三十三」の308ページの最後の行からです。「黄帝が言われます。病んで身体中が熱して汗が出ているにも関わらず、胸がいっぱいにつまったように苦しいのがとれない、こんな病は何と言いますか。岐伯が答えます。汗が出ているのに身体中が熱している者は、風のせいです。汗が出ているのに胸がいっぱいに詰まって苦しいのがとれないのは厥(けつ)のためです。故にこれを風厥(ふうけつ)といいます。(「厥(けつ)とは、四肢または全身が末端から中心部に向かって冷却すること。)

黄帝が言われます。どうかもう少し詳しく教えていただけないでしょうか?岐伯が答えます。足の太陽膀胱経は気を司っています。故にまずこの経脈が邪を受けます。足の少陰腎経はそれと表裏の関係にあります。足の少陰腎経が足の太陽膀胱経の風熱を受けますと、その気は皆足の太陽膀胱経の方に上がってしまいます。腎の気が上がってしまうと、足が冷えあがりまして厥の状態になってしまいます。

黄帝が言われます。この風厥はいかにして治療すればいいのでしょうか?岐伯が答えます。足の太陽膀胱経と足の少陰腎経との表裏ともども刺法を加え、薬湯を服用させます。黄帝が言われます。労風の病とは如何なるものでしょう?岐伯が言います。労風の病は肺と腎に異和を来します。この病症は頭と項が強ばって目がかすみ、唾(つば)が鼻水のようにダラダラと流れ、風にあたるのを嫌がりガタガタと震えます。

これが房事過度、あるいは過重な労働のあとで、風に中てられたために引き起こされた労風という病です。黄帝が言われます。治療法は如何にすればいいのでしょう?岐伯が答えます。呼吸療法と整体療法で治します。若い精気のある者ならば三日、中年の者ならば五日、老人は七日行いますと、口または鼻から弾丸位の青黄色の膿のような汁と咳とともに吐き出します。(つづく・水曜日は、「唯識入門講座を実践的に考える(1)」でしたが、木曜日の「素問を読む(187)を行いましたので、唯識は明日行います。)

「素問・新釈・小曽戸丈夫」たにぐち書店、平成18年

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