2017年2月20日 (月)

私の脳の構造と機能(44)「髄液の次は、脳内に脳内における、血液の流れ」

 先週は、「脳内の髄液の流れ」(58,59ページ)を行いました。髄液は、脳、脊髄の回りを満たし流れています。この髄液は、無色透明で血液中の血液成分(赤血球、白血球、血小板)以外の血漿(けっしょう)に似ています。ただ血漿のようにたんぱく質をほとんど含みません。この髄液と全身の血液の間には、血液髄液関門がありまして、血液組成が変化しても、髄液に影響は出ません。

髄液の流れは、脳室→クモ膜下腔→静脈洞という一定の流れを保っています。逆に流れることなどはありません。脳内で仮に不純物が発生しても除去できます。髄液は、脈絡叢(みゃくらくそう)という脳室の壁のような所からじわじわと湧き出てきます。その奥には、毛細血管があります。髄液は、クモ膜下腔をめぐり、静脈洞に吸収されて、やがて脊柱管の静脈叢に合流していきます。

こんなことが意識をもってできるはずはなく、深層意識である阿頼耶識のもと行われています。大乗仏教からその発想は生まれてきました。阿頼耶識は人の死後も綿々と続いています。それでは、続いて「脳内の動脈の分布」(60ページ)に移ります。脳の中には、膨大な細胞が生きていて、それに血液を通して、十分な栄養と酸素が送られなければなりません。その責を担っているのが、総頸動脈と鎖骨下動脈です。

総頸動脈は、首で枝分かれして、内頚動脈と外頸動脈として上行していきます。内頚動脈は枝分かれすることなく、側頭骨にある頸動脈管という通り道を経由して頭蓋腔に入ります。脳の部分に入るのです。その後、眼窩に眼動脈を出してから、前大脳動脈(前頭葉に行きます)と中大脳動脈(頭頂葉、側頭葉、大脳基底核などに行きます)に分かれて脳に分布します。外頸動脈は、顔面の各部、頭部の皮下、硬膜に分布します。

鎖骨下動脈からは、椎骨動脈が枝分かれして、椎骨に従って上行し、頭蓋骨の底部に開いている大後頭孔から頭蓋腔に入り、左右の椎骨動脈が合流し脳底動脈(脳幹や小脳にいきます)となります。脳底動脈は、延髄と橋に枝を出しながら橋と中脳の境目で再び2本に分かれ左右の後大脳動脈(後頭葉と間脳に行きます。)になります。

「ぜんぶわかる脳の事典」坂井建雄、久光正、監修、成美堂出版、2011年

2017年2月19日 (日)

地前の菩薩(ぼさつ)とは、誰でも心さえあればなれる

 日本人にとって、菩薩(ぼさつ)とはなじみのある存在です。日本のあちらこちらにある寺院には、様々な菩薩像があります。菩薩とは何でしょうか。広辞苑第六版によると、「菩薩:①さとりを求めて修行する人。もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。後に、大乗仏教で、自利、利他を求める修行者を指し、自利のみの小乗の声聞・縁覚に対するようになった。また・観世音・地蔵のように、仏に次ぐ崇拝対象とされる。」

とくに大乗仏教で悟りを求めて修業する人のことで、それ以外の意味は、後ほど付け加えられたもののようです。○○菩薩という仏像がありますが、悟りを求めて修行する人をデフォルメした姿だと思われます。根本は悟りを求めて修行している人です。悟りとは何でしょうか。広辞苑第六版によりますと、「悟り:②(仏)まよいが解けて真理を会得すること。①理解すること。知ること。また、気づくこと。感づくこと。察知。」となっています。

これらから分かることは、菩薩は迷いが解けて真理に気づくこと、を求めて修行する人ですから、あえて宗教に関係しなくとも、街の片隅に生きるおじさん、おばさんなどでも、心さえあれば菩薩となれます。修行も仏教に限りません。人生生きている限りは修行です。結局、悟りを求めて修行する人とは、心さえあれば普通の庶民のことです。ただし、心さえあればの心とは、自分を含めて、多くの人に幸せであって欲しいと願うことです。抜苦与楽の祈念です。生きとし生けるものが幸せでいて欲しいと願うことです。

それは物質の点でも霊的な面でもです。それと自分の慈悲心・菩提心を高めることです。大乗仏教では、心の訓練は果てしなく長い旅です。その長い過程で悟る時が来ます。心がきれいになって浄化され無漏智(むろち・汚れの無い智慧)が起きてきます。私たちの大半は、そこまで行かず凡夫のままで、それでも悟りを求めて泥水の中を歩みます。初地まで遠く及ばず、そのような人を地前の菩薩と呼びます。

私と仏の関係が地前の菩薩には必要です。誰かが評価したり、宗教組織が資格試験をするわけではありません。私と超越者であるお天道様、あるいは大日如来や仏との関係が重要です。それを知れるのは、私の心のみです。心の中で、地前の菩薩であると感じたら、あなたはもう地前の菩薩です。寝たきりで過ごす人も家の無いホームレスの方も「抜苦与楽」、「すべての生きものが幸せでありますように」と願い祈るなら、あなたは地前の菩薩です。無宗教の人でも色々な宗教をお持ちな人も、地前の菩薩にはなれます。

2017年2月18日 (土)

「奇経八脈攷(こう)」を考える(32)「脈診と病証で陰陽蹻脈を決定し、(陽)申脈、(陰)照海などで治療する」

 先回は、102,103ページの「八、二蹻為病(両蹻脈の病証)」の(1)まで行いました。今日は、(2)から行います。「(2)王叔和(おうしゅくわ)は『脈経』においてこう言っている。「陰蹻の脈が急するとは、内踝から上の内側の筋肉が硬直・痙攣し、外踝から上の外側の筋肉が弛緩することを言う。「陽蹻の脈が急する」とは、外踝から上の筋肉が硬直・痙攣し、内踝から上の内側の筋肉が弛緩することを言う。

またこう言っている。寸口の脈を脈診しているとき、脈搏が前部(寸部)においてはじくような緊脈を呈する場合は、陽蹻脈に病変があることを反映しているのである。そのときには、腰背部が痛む。また、癲癇(てんかん)やヒステリィーの発作が起こり、身体が硬直してぱったりと倒れ、羊が鳴くような叫び声を発する、半身不随、身体のマヒ、皮膚や身体が強ばりしびれ痛む、等の症状が起こる。このとき、かすかに濇(しょく・渋)脈であれば風癇(ふうかん)の病を患っているのである。

いずれの場合も陽蹻脈に取穴するか、外踝の上三寸にあって、絶骨(懸鐘穴)に並ぶ穴位(附陽穴)を取穴するとよい。」ここまで読むと両蹻脈の病証は、半身不随や筋肉の痙攣・硬直・麻痺などに関係が深いことに気づきます。私のように半身不随で、右側の半身の筋肉が硬直したり、痙縮している人間には、両蹻脈は関わりが深いものと思われます。また李時珍先生は、陰蹻脈がもっとも重要な奇経であり、次いで任・督・衝脈であると言っているのです。

この両蹻脈は、『両脈が正常ならば筋骨の関節の動きが良くなり、足は早く、身体の動作は身軽で素早いものとなると言われています。続きです。「またこう言っています。寸口の脈を脈診しているとき、脈搏が後部(尺部)において左右をはじくような緊脈を呈する場合は、陰蹻脈に病変があることを反映しているのである。そのときには、癲癇やヒステリィーの発作、悪寒発熱、皮膚が強ばりしびれ痛む。また、下腹部が痛み、腹中に急迫感が生じて、腰と髖りょう(骨盤)の下方が陰器と引っ張り合うような感じで痛み、男子は疝気、女子は不正性器出血となる、等の症状が起こる

またこう言っている。癲癇やヒステリィーの発作が起こり、手足が引きつけて痙攣を起こし、疼痛のあるところがわからないときには、両蹻脈の下方に取穴するが、男子は陽(申脈穴)を、女子は陰(照海穴)を取穴するとよい。」陰蹻脈の総穴は、照海穴で、陽蹻脈の総穴は、申脈穴です。照海穴は、内踝のすぐ下の穴で、申脈穴は外踝のすぐ下の穴です。陽蹻脈の病証は、筋肉の硬直、痙攣、痙縮、半身不随、マヒなどが見られます。陰蹻脈の病証は、下腹部が痛み、下腹部に症状があるようです。

健康な時の陰陽蹻脈は、関節の動き良く、足は早く、身体の動作は身軽で素早いとなっています。という事は深層意識の阿頼耶識が完璧に機能しており問題はありません。両蹻脈の病証は、深層意識が充分に筋肉などを動かせないことに起因しております。

「奇経八脈全釈」李時珍、編著、小林次郎、訳注、燎原書店、1991年

2017年2月17日 (金)

心の治癒力を研究する(22)「心の治癒力を活用する土台は、菩提心である」

 今日は、「第三章、出発」の最後のところ、84ページの「悟りに向かう態度(菩提心)」を行います。大乗仏教においては、このような心の態度が基礎となり土台です。それは慈悲心をもって、霊的な修業を行うことです。「すべての生きものが幸せになるように、利益をこうむり、悟るように、この心の訓練を行おう。」というものです。私が聞いた良い言葉は、「霊的にも物質的にも抜苦与楽(苦を除き楽を与える)の精神で、すべての生きものに幸せであって欲しい」と願うものです。

仏教経典のなかでは、これを菩提心(ぼだいしん)といいます。これは悟りに向かって進んで行く姿勢です。誰でも、(他の生きものが幸せであるように願うならば)地前の菩薩となることができます。ホームレスの人でも、病気で寝たきりでいる人でも、誰であれ、自分の意志で決意すればあなたはもう地前の菩薩です。宗教組織とは一切関係なく、凡夫の菩薩です。仏教やキリスト教やイスラム教などとは関わりなく、宗教とは関わりなく、地前の菩薩です。もちろん、宗教を行っていれば、それはそれでいいのです。

これが悟りに向かって行く姿勢です。これはとても大切な生き方で狭く閉じこもった心を開く強力な方法です。これによって力強い精神的なエネルギーが生み出されます。この「菩提心」を育み育てていくならば、すべてのことは自然に霊的な修業になります。慈悲に向けて心を開くことは、ときに難しく思えます。悪しき感情や態度に支配されてしまうこともあり得ます。でも根底にある動機や意図が大切で、慈悲を育てることによって、昼となく夜となく、止まることのない流れのように徳が積み重ねられていくそうです。

おそらく菩提心は、宗教組織とは一切関係なく、人間として生まれてきた生の本質的な意味を達成させてくれます。ブッダという悟った人が人間の真実を教えてくれるといえます。次は、「第四章、自信を育てること」(86ページ)という章に入ります。自信とは自分を信ずることです。自分自身を信頼し、自分が進む道を信頼することです。罪の意識は自己の不安や障害になります。自分は、無価値だという感覚を癒す強力な治療法は、じぶんはその本質において完全な存在だと悟ることです。そうすることができれば、自然な自信と満足が内面から湧き起ってきます。

生活の中で毎日わずかでも自分にプラスの面があったら、それに気づき、喜べるように自分を訓練することです。私たちには、もともと清らかな本質を持っています。それはフィクションではなく、真実です。内なる智慧は究極の真実です。私たちの内には信頼できる土台があります。それを訓練し鍛錬すれば、それは大きく成長し静寂な心と積極的な姿勢が身に付いたことに気づくはずです。

「心の治癒力―チベット仏教の叡智ー」トゥルク・トンドゥップ、著、永沢哲、訳、地湧社、2000年

2017年2月16日 (木)

素問を読む(174)「東洋医学はすべて原因を冷えや精神的なものの影響や無理な生活や寒・風。湿に求める」

 今日は、「通評虚実論(つうひょうきょじつろん)第二十八」の285ページの8行目からです。「黄帝が言われます。およそ、内熱のためにいくら飲食しても痩せる病の消疸(しょうたん)、突然倒れる病の仆撃(ふげき)、半身不随の偏枯(へんこ)、手足が冷えていえる病の痿厥(いけつ)、胸中に気がいっぱい詰まる病の気満、気が下腹から突き上げる病の発逆、これらの病を治療するにあたっては、その患者が肥えた者や身分の高いものである場合は、この原因は美食であります。

また、陰陽の気の交流が隔てられていると、飲食物が通らなくなります。飲食ができなくなって大小便が悪くなるのは、にわかに物思いにふけったための精神的な憂欝(ゆううつ)が原因となっているのです。急に足が冷えてのぼせ、耳が聞こえなくなり、片方だけの機能が通じなくなったのは中の血気が急に頭に上ったからです。これは精神的に激動した上、外界からの邪風に中てられたためです。だから痩せて病邪が留まりつくので、これを痩留着といいます。

足が痛んでびっことなるのは、寒と風と湿に中てられたためです。黄疸や暴痛、すなわち、にわかに痛みを起こす病は、長い間の無理が原因であるようです。五蔵の機能が悪いのは、それに応ずる六腑の気がどこかで閉塞して通じないのが原因です。頭痛、耳鳴り、耳目口鼻等の五官の機能や大小便の通じが悪いのは、胃腸の働きが悪いことに起因しています。

通評虚実論を終わります。半身不随の偏枯とは何を言っているのでしょう。漢方医語辞典(西山英雄、編著、創元社)によると「半身不随也。霊枢熱編に曰く、偏枯は身の片側しか用いられず痛み…とあります。

「素問・新釈・小曽戸丈夫」たにぐち書店、平成18年

2017年2月15日 (水)

水曜の心の学び(219)「いよいよ仏に成る。地前の菩薩からは、はるかに遠いがそれを夢見て歩む」

 401ページの「相好(そうごう)の百劫(ひゃくこう)」という副見出しに入りましょう。第三阿僧祇劫の最後の第十地に入るといよいよ成仏が近づいてきます。成仏とは、死ぬことでなく仏レベルになる事で、とても長い時間がかかります。阿僧祇劫(あそうぎこう)といえば、考えられないほど長い年月です。初阿僧祇劫、第二阿僧祇劫、第三阿僧祇劫の時間が過ぎていくためには、何度も輪廻転生(りんねてんしょう)していかねばなりません。輪廻転生しつつも自分の菩薩(ぼさつ)としての役割をどこかで思い出さねばなりません。地前の菩薩は、汚れた泥水の中から這い上がって来ることもあります。

仏の身体的な特徴を相好(そうごう)と言います。百劫という期間にわたって相好を身につける修行をしなければなりません。大乗仏教ではこの百劫は、利他行の位にである第三阿僧祇劫の内に含め、第十地の最後の満心である金剛喩定(こんごうゆじょう)を修する等覚の位に収めるようです。とにかく仏に成る前に、仏独自の姿や仏に固有の立ち振る舞いを学修して、最後に仏に成るための儀式が行われるのです。(良遍のころにはそのように考えていたのでしょう。)

良遍の次の言葉に進みましょう。「此の如くもろもろの修業満足する時、色究竟天(しきくぎょうてん)とて、物のかたちの分斉に取りては、上のはてにて候ところより猶(な)をかみに、大自在天宮と申すは浄土にて、十阿僧祇百千の三千大千世界にはばかる程の大宝蓮華王の座に坐して、金剛喩三摩地と申す定に入りて、先に申し候つる仏果の障りを断ずるなり。此時を等覚の菩薩と名付く。受職灌頂の儀式此位にあり。」それでは現代語訳です。

「このようなさまざまの修業を成就した時(最後に色究竟天において金剛喩定を修して仏となる)。すなわち、物の形を持つ世界としては、一番上にある色究竟天よりなお上にある大自在天宮という浄土において、十阿僧祇百千三千大千世界に満ち満ちたほどの大きな宝蓮華王の座の上に坐って金剛喩三摩地という定に入って、先述した仏果をさえぎる障りを断ずる。このときを等覚の菩薩と名づける。仏という地位を受ける儀式もこの位の中で行われる。」

 いよいよ菩薩が仏に成る直前の様子を述べた文章であるようです。受職潅腸の儀式とは、十方から集まってきた諸仏によって、頂に智慧の水を灌がれ、もって仏の位を授かる儀式です。とうとう仏に成るのですね。でも第三阿僧祇劫の最後、第十地の金剛喩定を修し大自在天宮で仏になるのです。あまりにも遠大な計画なので、良遍自身もふあふあとしているようです。

「唯識とは何か・法相二巻抄を読む」横山紘一、著、春秋社、2005年

2017年2月14日 (火)

私たちは、横につながっているだけでなく、縦にもつながっている。

 私は、かって、元鍼灸マッサージ師でありました。資格の上では、今でも鍼灸マッサージ師であることに変わりはありません。それを仕事にしていた時は、横の経絡のつながりを考えていました。経絡は縦に12本つながっています。その相互には深い関係があり、人体の機能を支えています。奇経八脈も8本の奇経の経絡で人体の機構を支えています。それでありながらもこれらは、現時点の機能を表しています。

それは現在生きていて活躍している人たちのようです。でもその中の一人が亡くなれば、活躍からこぼれ落ちて、過去の人になっていきます。次第にその名は忘れられその存在は消えていきます。私がそのようであってほしいと思うのではなく、現実の人間社会がそうなのです。輪廻転生(りんねてんしょう)といえば、仏教を中心として縦の関係性を示しています。もっぱら、宗教上の概念に思われますがそればかりではないようです。

一人の個人が生きてきて、死をきっかけにして、バルド(中間世)を経て、新しい人生を始めます。その人が次の人生を過ごし死がやってくると、それとともにチベット語でバルド(中間世)に移ります。そこは心の安らぐとても良いところであるようです。そしてまた現世に生まれ来るようです。こうして何千年かが過ぎて行きます。各人生で人は別人格で変わり、名前や容姿も様変わりいたしますが、根本はその人であることに違いありません。

私の個人的予想で述べてきたことが、昔から世界で伝承されてきたようです。これは、「輪廻転生、驚くべき現代の神話」J・L・ホイットン他著、片桐すみ子、訳、1989年、第一刷、人文書院によります。中間世というのがいわゆる《あの世》であるようです。これらの事は現代の精神科医によって催眠療法などで明らかになってきました。「悟りとは、転生を重ねて遅々とした浄化の旅をつづけた後にのみ手にすることができる宝だと、どの経典にも書かれている。ひとりひとりの前生の経歴を調べた結果分かったのは、オーバーソウル―大霊、すなわちさまざまに転生する人格の影に隠れている内なる自己-の成長や発展は、何度も生まれ変わって罪を洗い清めていく過程しだいで決まる、という事だった。」(同書33,34ページ)

色々な人格や容姿の根底にある内なる自己が生まれ変わって成長していくのです。これは、ハイアーセルフとも言われています。このことを本を読んだり考えたりして結論付けました。宗教の影響を受けたことは一度としてありません。私の過去の経歴と現在の意識レベルを考えると内なる自己の成長と発展は遅々として進まず下の方で留待っていますがあきらめたりしません。

鎌倉時代に良遍は、法相二巻抄でまったく同じことを言っています。悟りには程遠く、初地にさえ立っていない地前の菩薩ですが永遠といえる日々をかけて前に進むのです。

2017年2月13日 (月)

私の脳の構造と機能(43)「髄液は脳室を幾度もくぐり、クモ膜下腔を満たし、静脈洞で吸収される終わりなき循環をしている」

 今回は、久しぶりに月曜日のブログを書きます。前回第43回がほとんど行えませんでしたので、今回も第43回として書きます。「脳内の髄液の流れ」(58、59ページ)です。先日は、16世紀の明時代の医師、李時珍の「奇経八脈攷」を読んでみました。経絡や奇経には、終わりがなく、その中を流れる精気(せいき)は絶えず循環していて、生きている限りは身体中をめぐっているのです。

李先生は、それを「輪形(わがた)の宝玉(ほうぎょく)」と例えています。終わりと始まりがないのです。脳内の髄液(ずいえき)も新たに作られながら絶えず循環し、最後の静脈洞に吸収され、また脳内に生み出されるのです。髄液は目に見える物質に近いものですが、精気は、もっとベイシックな人間の生に関わっているものであるのに相違ありません。脳室と脊髄を満たしている脳脊髄液(髄液)は、常に循環し、入れ替わっています。

側脳室で生み出された髄液は第三脳室へと流れ、第三脳室で生み出された髄液と共に第四脳室へと下ります。これらは脳の中心部で行われる仕事です。誰が行うのですか?私ではありません。私の深層意識である阿頼耶識(あらやしき)です。それらは刻々となされます。第四脳室には、2つの出口があります。正中口(マジャンディー孔)と左右1対の外側口(ルシュカ孔)です。

これらはクモ膜下腔とつながっていて髄液はこの孔からくも膜下腔に流れ、脳表面と脊髄内を循環します。循環を終えた髄液は、静脈洞内の静脈血中に入った後、内経静脈に送り出されます。髄液が静脈洞内に入るためには、くも膜下粒という特殊な組織を通ります。これは、くも膜の一部が硬膜を貫き、静脈内にきのこ型に突出したもので、大脳縦列に沿って頭蓋表面を走る上矢状静脈洞に特に多いようです。

脳や脊髄の診断で髄液検査を行うことがあります。脳や脊髄に炎症や腫瘍や出血などがあると髄液の組成が変化するからです。髄液を採取する方法は、腰椎穿刺という方法が一般的です。腰部の脊椎(腰椎)に針を刺し腰部クモ膜下層まで針を進め、髄液を採取します。ただし、頭蓋内圧が亢進している場合にはこれを避けます。穿刺によって脳ヘルニアを起こし、延髄の生命維持中枢が圧迫される恐れがあります。そうした場合には、延髄背側と小脳下面にある小脳延髄槽(大槽)という部位に針を刺します。これを後頭下穿刺といいます。

「ぜんぶわかる脳の事典」坂井建雄、久光正、監修、成美堂出版、2011年

2017年2月12日 (日)

祈りの力で、困難を乗り切る

祈りの対象は、お天道様、大日如来、全能の神様、等、絶対者の外に故人、御先祖様、先人のこともあるでしょう。そのような方と密なコミュニケーションをとるには、祈りという手段しかありません。テレビやラジオを消して心をその方々に向けるのです。そして祈りの内に会話するのです。おっと、私の脳が危ない道を行っているというのでしょうか。

日常生活に忙しくて、むしろ祈りが少なくなっています。というよりか、全然祈りがありません。祈りは自分の心で行うものです。祈りには観想やイマジネーションを加えるとなお効果的です。悲嘆にくれる自由な暇があるのなら、祈りを行いましょう。「爆笑問題」のラジオを消してから書くことが出てくるようになりました。

祈りは東洋、西洋、中近東など変わりなく古来から行われてきました。祈りそのものは、心の活動です。様々な祈りの方法がありますが、目を閉じて、深い呼吸を繰り返すだけでも効果があります。ある書籍によりますと、祈りには言葉が必ずしも必要ないということです。言葉があればより詳細ですが、心のエネルギーを高め目的へと向かわせるか、心をリラックスさせゆったりさせることもできます。

私の部屋にはラジオがあり、普段楽しんでいますが、祈りを行う時静かな環境が必要です。心の中からアイディアも湧いてきます。私はとりたてて宗教人ではありません。お天道様は、私が生活の中で気づいた呼び方で、昔の日本人に親しまれている超越者の名前です。大日如来がよければそれでいいし、天の神様がよければそれでいいのです。

私はエリートでもありませんし、最も貧しい部類の人間で何一つ誇れるものはありません。今後どうなるかはわかりません。ただ地前の菩薩(ぼさつ)の駆け出しです。それだけは確かです。ホームレスのおじさんでも心の中でこの道を死ぬまで続けると決意するのなら、その人は地前の菩薩です。宗教とは関係ありません。

キリスト教やユダヤ教やイスラム教でも菩薩になれますし、無宗教でも菩薩になれます。より良い人を目指して、また、抜苦与楽を人々に与えるを目指して歩む決意を心に決めるなら、地前の菩薩です。地前とは、仏教でいう初地にも達していない凡人です。初地を過ぎると悟る状態がやって来ます。地前は長い月日がかかります。それでも、もうあなたは菩薩です。資金や地位は必要ありません。菩薩とは今が凡夫でも悟りを目指して歩む人です。

2017年2月11日 (土)

「奇経八脈攷(こう)」を考える(31)「身体を流れる精気は、グルグルと循環し、人間の有り方を暗に示す」

「奇経八脈攷」の101ページの3行目、【岐伯が答えた】から行いましょう。先週は男子は陽蹻脈(ようきょうみゃく)の長さを計り、女子の場合は陰蹻脈(いんきょうみゃく)の長さを計るという事は、何を意味するのでしょうか。それでは今週分に行きます。「岐伯(ぎはく)が答えた。身体における陰陽の両蹻脈の脈気の循行は、水の流れのように、あるいはまた太陽や月の運行のように休止することがない。

だからこのように循行しながら、陰脈は五臓の精気を運営してから陽脈に伝注し、陽脈は六臓の精気を運営してから陰脈に伝注しているのである。その様子はあたかも輪形の宝玉であるかのごとく発端(ほったん)のないものであり、その循行の起始点を識別されることもなく、終わってはまた始まるのである。

蹻脈の脈気は、内に流れては五臓六腑を灌漑(かんがい)し、外に溢(あふ)れては筋肉と皮膚の紋理を濡潤(じゅじゅん)するのである。」
陰陽両蹻脈を流れる精気は、クルクルと始めもなく終わりもないように陰陽蹻脈を流れているのです。この単純な経絡の真理は、人間の生き死ににも通じます。人は1回の人生で終わりになるのではなく、その人生は続いています。

それが現代の生活の浮き沈みにとらわれているときには、見えません。人は、物質ではありません。精神と肉体と魂からなる融合体なのです。肉体に寿命が来れば、魂(あるいは霊、スピリチャルな存在となるのです。)私はオカルトなどには、興味がありませんし、きらいです。輪廻転生は、幻想ではなく自然の移り変わりのことです。人がどこまでも生きれるとしたら、それを願うでしょうか。自然の事物と同じように人も変化し続けます。

その最後は病気のこともあれば、老衰のこともあります。でもそれが最後に感じるのは、後の状況が見えないからに他なりません。この世を去った人でも心の会話はできます。オカルトのことを言っているのではありません。心で質問し、答えを待つのです。その答えは自分が作成しているのでしょうか。そうかもしれませんが、故人の答えもあるはずです。本文から大分それました。

「八、二蹻為病(両蹻脈の病証)

(1)秦越人(しんえつじん)は『難経』においてこう言っている。陰絡とは、陰蹻脈の別絡のことである。陽絡とは、陽蹻脈の別絡のことである。(二十六難)陰蹻脈の主要な病症は、陽側(外側)の筋肉が弛緩し、陰側(の筋肉が硬直・痙攣する病状を呈する。

陽蹻脈の主要な病証は、陰側の筋肉が弛緩し、陽側の筋肉が硬直・痙攣する病状を呈する(二十九難)」後の続きは来週土曜日に。

「奇経八脈攷全釈」李時珍、編著、小林次郎、訳注、燎原書店、1991年

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