2017年3月29日 (水)

水曜の心の学び(225)

 法相宗では、仏は具体的に色心を持った仏のことで心も身体も生じては滅する有為の仏であると主張しています。それでも仏は常なるものであるといえるのは、(1)四智の根拠となる真如(しんにょ)は常であるからという事と、(2)救うべき人々は尽きることがないので、報身も化身も尽きることはないから、と言う理由です。仏は苦しむ衆生を済度するために、有為の存在としてこの世界に生き生きと働きかけてくるのです。良遍の言葉に進みましょう。413ページです。

「有為と名付くといえども、永く二種の生死を離れたり。二種の生死と者、分断生死・変易生死なり。分断生死とは、我等が受くる生死なり。長くも短くもその命必ず限り有て、久からんと思えども叶わざる果報成り。変易生死とは、菩薩の受ける生死なり。久からんと思えばいくらも久し、その命限りなし。但し仏になる時のみその身を捨つ。されば仏は永く二死の生死を離れ給えり。生も生死の生に非ず。

生死の生は、業力に依りて三界に生まれるる義也。仏身の生は、有為の無漏の起これるを生ずと名付く。三界に生まるる義には非ざるが故也。滅も生死の死に非ず。生死の死は、業力尽きて命終わする義也。仏身の滅は、有為の無漏の刹那の滅也。仏命尽きる事無きが故なり。只是れ法体微細の刹那の生滅也。故に出離生死の仏身と名付く。若し生あれ共滅は無しといわば、此理有る事無し。此れ有為の報仏と名付く。」

(つづく)

2017年3月28日 (火)

心の力で脳卒中後遺症を治す

心の力で脳卒中後遺症を治す、といったってだれも本気にはしないでしょう。そういう私だって本気にはしていません。それでもこんな表題を書くと言うのは、心の力にはまだ自分も含めて多くの人が知らない秘密が山のように残されているからです。心の力=脳卒中後遺症を治す、には深いつながりがあるのです。そう直観します。そうでなければ、現代医学思想からは、治すすべがないように感じています。

心の力とは、何でしょう。私たちの内側からであるばかりでなく、心がいかに大きな作用を持っているか深く考えてみるべきでしょう。でもこのような定義は、脳卒中後遺症の臨床であえて用いられて来なかったのです。脳の細胞のことは注目されてきました。脳細胞が賦活されてくれば症状も良くなるというものです。それが難しいことであるばかりでなく、人間を機械のように見ている感じさえします。

そのような機械論を離れ、心の治療室のことを考えましょう。心の治療室は、私の想念で心の中にイメージするものです。そして心の治療室内では、私は五体満足の青年となります。治療の業も思うようにできます。脳卒中後の痙縮を治す方法も医学者や科学者にはよくわからないものでも、すべての人の内にいる智恵者にはわかります。その内なる智慧を私たち自身が信じていないだけです。

それでも普段から内なる智慧は働いて、私たちを守ってくれています。消化や吸収やはてしないほどのもろもろのしくみで…。(つづく)

2017年3月27日 (月)

私の脳の構造と機能(49)「脳神経は、主に頭と顔に関係する神経からできていて、迷走神経は胸と腹に関係する」

今日は、「脳神経の分布とおもな働き」(本文68ページ)の後半部(69ページ)に進みます。「特殊感覚神経、体性運動神経、䚡弓(さいきゅう)神経の3群に分けられる」(69ページ)の副見出しのところに進みます。脳神経の役割を機能面でみると3群に分類されます。①特殊感覚神経は、嗅覚、視覚、聴覚、平衡覚という特殊な感覚を伝えます。これらの特殊感覚神経は、Ⅰの嗅神経、Ⅱの視神経、Ⅷの内耳神経であり、末梢から中枢へと向かう求心性神経であるとされています。

体性運動神経は、Ⅲの動眼神経、Ⅳの滑車神経、Ⅵの外転神経、Ⅻの舌下神経です。残りの䚡弓神経は胎児期に由来する神経群で、その時の頸部の器官をいいます。ここに由来する神経群です。多くは運動神経線維と感覚運動神経線維が混合します。この神経には、咀嚼筋、表情筋などの横紋筋を支配する䚡弓運動線維、迷走神経を代表とする内臓神経線維、顔面の皮膚感覚を伝える三叉神経など体性と内臓感覚線維、顔面神経、舌咽神経、迷走神経に含まれる味覚神経があります。

これらを覚えるのは大変です。でも脳神経の左右12本である24本は、脳幹の背側に縦に縦に並んでいる脳神経核より出発します。大体、首から上へ行く神経で、迷走神経のように胸から腹まで達しているものもあります。そこを走る神経は体性運動神経、体性感覚神経、内臓運動神経、内臓感覚神経、特殊感覚神経、䚡弓神経などからできています。それでは、Ⅰ~Ⅻまでの脳神経をみてみましょう。(Ⅰの嗅神経)は鼻の最上部の粘膜につながります。

嗅細胞が密集する嗅上皮がとらえた嗅覚情報を、片側20本ある嗅神経が嗅球内に入って大脳皮質に伝えます。(Ⅱ、視神経)網膜の神経節細胞の軸索が合流して視神経となります。そして視覚情報を中枢神経に伝えます。視神経は頭蓋腔に入ってから左右に交叉します。(Ⅲ、動眼神経)眼球の動きを司ります。眼球に付着する外眼筋4種を支配する運動神経線維が眼球を動かし上眼瞼挙筋を支配する運動神経線維が瞼の動きに関わっています。さらに中脳の動眼神経副核からの副交感神経も加わります。後は、Ⅳ~Ⅻの脳神経は次週です。

「ぜんぶわかる脳の事典」坂井建雄、久光正、監修、成美堂出版、2011年

2017年3月26日 (日)

セルフ・ヒーリングは、私にとっては生きて行けるかどうかの大事である

 セルフ・ヒーリングと言うと自己治療のことでしょうか。私はコレまで自己治療を何度やろうと思ったでしょうか。結局、そのたびに思いとどまり、やってきませんでした。一つには右半身の片麻痺があり、治療と診断あるいは診察が思うようにいかず、あきらめていたのです。自由にFTで診察でき、思うように答えと治療ができた日々が懐かしくもあり、羨望の気持ちが絶えないのです。

現実を認め、現実から出発しなければならないのです。今現在は、右半身の感覚麻痺と運動麻痺と痙性マヒがあり、治療や診察ができないのが現実です。そこから出発します。確かに鍼や灸やマッサージは思うようにできません。ベティ・シャインという方は「あなたにもあるヒーリング能力、こころとからだのナチュラル・ヒーリング」(鈴木純子、訳、たま出版、平成6年)の中で、「ところで残念なことに、私たちはみな依存心をも獲得する。そのため治療において、医学の専門家に頼らずに自分で自分を癒すことがどんなに難しいことか知っている。」と述べています。

ベティさんは言います。子どものときから「あなたが自分で痛みを治すのよ。」と言い続けるようです。それはちょっと聞くと冷たい言い方に感じます。でも人間にはその能力があり、まして子供の内には大いなるイマジネーション力が備わっているのです。病気を自分で治す能力や発想力も溢れるほどに持っているのです。心の中で治療室を創ることができるとベティさんは言います。

心の中に思い浮かべて創るのです。実際私が持っていた治療室を参考にして作ってもいいのです。心の中には、家賃もかからず古びもすることがない治療室が出来上がりました。ここで黄金の鍼や素晴らしい高級もぐさを使った鍼灸治療を自由に行えます。心の中では、私は健康な30歳くらいの青年で、痙縮にも右半身の痛みにも自由に対応できます。治療室の薬箱には、痙縮をやわらげ解消する薬もそなわっています。

右半身の痛みや拘縮にも対応できる薬もあります。これらは、私の思いの中での薬ですから、鍼灸師でも使えます。実際どのように機能するかを私は知りません。おそらく神経伝達物質が現場まで駆けつけて働くのでしょう。例えば、エンドルフィンのようなものです。私たちのまだわからない体内機能も働くでしょう。ベティさんが書いているように大切なのは、イマジネーション力でしょう。

2017年3月25日 (土)

「奇経八脈攷(こう)」を考える(37)「眼球を枕のように支えている玉枕穴で眼の痛みに対処する」

 今日は、120ページの(7)から行いましょう。「(7)また『霊枢』の「寒熱病・第二十一」にはこう記載されている。[足の太陽膀胱経に項部(外後頭隆起から大椎の間)を通って脳に入絡するものがあり、ちょうどこの部位において目本(目の根)に属しているが、その名称を眼系と言う。頭と目の苦痛は、項中の両筋の間の玉枕穴に取穴して治療する。この脈は項部から脳に入って二つに別れ]、陰蹻と陽蹻の二脈に連絡する。

この二つの脈は陰陽の気を互いに交流させている。すなわち陽蹻の気は陰蹻に入り、陰蹻の気は陽蹻に出て、内眼角の晴明穴において交会しているのである。だから、陽蹻の気が盛んになると、瞋目(しんもく・目がぱっちりと開いてしまう)し、陰蹻の気が盛んになると瞑目(めいもく・目をいつも閉じている)するのである。陽邪有余、陰気不足の熱厥証のときは、足の太陰脾経を補い、足の少陽胆経を瀉す。[陰邪有余、陽気不足の寒厥証のときは、足の陽明胃経を補い、足の少陰腎経を瀉す。]

『甲乙経』の「巻の十二」には、こう記載されている。[黄帝が質問された]人が病気のために目を閉ざし、ものをみようとも思わなくなるのは、何が原因となっているのであろうか。[岐伯が答えた]それは、衛気が陰分に停滞したために、陽分に出て行けなくなったことが原因となっているのである。衛気が陰分に停滞すると、陰気は盛んとなる。陰気が盛んとなると、陰蹻脈に脈気が満ち溢れる。このとき衛気は陽分に入れなくなっているので、陽気は虚している。だから、目を閉ざし、ものを見ようとも思わなくなるのである。

[黄帝が質問された](以下の文は『甲乙経』には収載されておらず、李時珍が『霊枢』の「大惑論・第八十」から転載したものである)病気のために目が閉じず、何が原因となっているのであろうか。[岐伯が答えた]それは衛気が陰分にはいることができず、夜になっても陽分に停滞していることが原因となっているのである。衛気が陽分に停滞すると、陽気は満ち溢れる。陽気が満ち溢れると、陽蹻脈の脈気は盛んとなる。

このとき衛気は陰分に入れなくなっているので、陰気は虚している。だから、目が閉じず、安眠できなくなるのである。」

参考を見て行きます。①足の太陽に項を通るものあり…足の太陽膀胱経は脳に入り玉枕(ぎょくちん)穴が有名です。後頭部の真ん中耳の上の線に脳戸穴を取り、そこから左右1寸3分に玉枕穴をとります。両眼中の眼系はすべてここにつながると出ています。私の右眼の痛みにも玉枕穴は関係しているのでしょうか。②目の鋭眥(えいし)-目の内眥のこと。蹻脈は内眥に属し、太陽に合すといわれます。

この位で《解説》に進みます。小林先生は脳に入る経絡について考察しております。陰蹻脈も陽蹻脈も脳に入るそうですが、その入るべき場所は言及していないそうです。陽蹻脈は風府穴か風池穴から脳の内部に入っていくとされています。陰蹻脈は、内眼角から眼球の後から脳内の脈絡に入るようです。脳に分布する経絡について、このように書かれています。

①督脈、②陽蹻脈、③陰蹻脈、④足の太陽膀胱経、膀胱経は玉枕穴より脳に入ることになるようです。⑤足の厥陰肝経、のどの上部から目系に連なりとでています。⑥足の陽明胃経…となっています。後は来週土曜日に続きます。

「奇経八脈攷全釈」李時珍、編著、小林次郎、訳注、燎原書店、1991年

2017年3月24日 (金)

心の治癒力を研究する(27)「強い面は伸ばし、弱点は癒すべきだ」

「第四章、自信を育てること」の110ページの副見出し「秘密の力」というところに進みましょう。チベット仏教は、密教的要素が大きいようで修行を行う時は、答えは、秘密の口伝(くでん)として与えれるそうです。密かに修行し、師以外には誰にも言わないことになっているそうです。その方が効果が大きいようです。でもそのようにするのは、自己を開くためであるそうです。エネルギーを集中するためにもそのことは役立つようです。

自己を開く目的で、集中するのは目的をなすためです。次は、「じぶんの強さと弱さを知る」の副見出しに進みます。私たちが一人一人違うのはある意味驚きです。基質も心の特質もみな異なっています。でも平和を見出す点においては同じなのであるとトゥルクさんは言っています。「問題にとらわれないように、心が苦しみによって負けないようにしなさい。」とシャンテデーヴァという人は言っているそうです。

私たちはその真実の本質において完全であり、偉大な力を持っているとトゥルク・トンドゥップさんは言っています。そのことを理解した上で強い面は伸ばし、弱点は癒(いや)すべきだと助言しています。私などは度胸が少なくて、他人の血を見ただけで卒倒してしまいます。心も小さいです。その替わり傲慢な心を持ちにくいし、強引な心も持ちずらいです。自分の欠点を認めて一歩を踏み出します。

この世界に満ちている悲しみや、喪失や苦しみについての瞑想があるそうです。何も信じることができなくて抑うつ的になるなら、信仰や積極的な態度や、清らかなものの見方や、慈悲や愛について、瞑想すれば勇気と霊感が与えられ、心配や疑いを洗い流し、自分自身と教えの力を信じることができます。究極の癒しは自らの内部に存在していると言います。もっとも深い真実の自己に降り立てば必要な答えが見つかるという事です。それが第四章、自信を育てることの要旨です。

「第五章、どのように問題に対処するか」に進みます。(つづく)

「心の治癒力―チベット仏教の叡智ー」トゥルク・トンドゥップ、著、永沢哲、訳、地湧社、2000年

2017年3月23日 (木)

素問を読む(179)「傷寒の病は伝染性の熱病か?」

今日は、「熱論篇第三十一」に入ります。295ページです。「黄帝が問いて言われます。今、流行している熱病は、すべて寒気にやぶられた傷寒病の類でしょう。あるいは、治ったり、あるいは死んだりしますが、死ぬ場合は発病後六七日で死んでいく場合が多いようです。また、治っても十日以上もかかるのはどういうわけでしょうか?その理を教えて欲しいのです。

岐伯が答えて言います。足の太陽膀胱経は他の陽経脈を管轄しているものであります。その脈は風府穴に連絡していて、陽経脈の気を司る働きをしています。もし人が寒邪に傷害されますと、熱を病みます。発病が甚だしく成りましても死ぬことはありませんが、寒邪が陽から陰に突き抜けて陰経脈・陽経脈が同時に病みますと、これを両感の病といいまして死病となるものであります。

黄帝が言われます。どうかそれら傷寒の症状をお聞かせください。岐伯が言います。傷寒になりますと、一日目は足の太陽膀胱経が病を受けます。ですからその経脈の流注する頭項が痛んで、腰脊が強ばります。二日目は、足の陽明胃経が病を受けます。この経脈は肌肉を司ります。その経脈は、鼻の両側を通り目に連絡しています。身体中が熱して、目が痛み、鼻が乾いて、苦しいので横になっていることができません。

三日目は、足の少陽胆経が病を受けます。この経脈は胆の経脈でありまして、脇を巡り耳に連絡しておりますので、胸や脇が痛んで、耳が聞こえなくなります。これら三つの経脈が病を受けまして、まだ邪気が経脈に宿ってそれぞれの腑に侵入していなければ、発汗して治すことができます。

(傷寒論のような病が紹介されています。今後のこの文章の展開に期待が持つてます。)

「素問・新釈・小曽戸丈夫」たにぐち書店、平成14年

2017年3月22日 (水)

水曜の学び(224)「常なる永遠に及ぶ仏であるが。有為の世界で生き生きと働きかける仏でもある」

今日は、411ページの良遍(りょうべん)の文からです。「是等の諸法の中に実法として有る法は、みな一々に種子あり。其の種子をば併(もっぱ)ら如来の無垢識(むくしき)の中に摂(おさ)めたもてり。生ずる時は其の一々の種子より生ず。すでに生ずるが故に又必ず滅す。種子も刹那刹那に生滅し、現行も刹那刹那に生滅す。是則衆縁の為作りなされたるが故なり。既に衆縁なす所なれば、仏身なれ共是を有為と名付く。」

著者の横山紘一先生の現代語訳を読ませていただきます。「これら(仏の色心の)法の中で実法としてあるものは、すべてそれぞれの種子があり、それらの種子は如来の無垢識の中に納めたもたれている。(色心の現行が)生ずるときは、そのおのおのの種子より生ずる。生ずるから、またかならず滅する。種子も刹那刹那に生滅し、現行も刹那刹那に生滅する。このようにさまざまの縁によって作られたものであるから、仏身といってもこれを有為と名づける。」

仏は無為(汚れのない)清い存在であるように思いますが、有為の仏もあると言う一段です。仏には、三身があるということです。法身・報身・化身の三身です。本書の22ページによりますと、三身とは、仏の身体とは何かという事から考察されました。仏のあり方を考察したものです。このうち、法身とは、法(ダルマ)すなわち真理そのものからなる仏のことで、報身とは、長期にわたる修行の結果として報われる功徳を享受する仏であり、化身とは人々を救済するために具体的な姿に変化した仏のことです。

さまざまな縁によって作りだされる仏であるので、有為であるというのです。上品の無漏の種子から四智が生じ仏となるので、種子という因縁から生ずる以上必ず滅びる存在です。世親作の『唯識三十頌』の最後に仏の性質として、『常』という性質があるというのです。この記述からすると、仏は生滅を離れた常なるものといわれています。本性としては常であるそうです。

「唯識とは何か・法相二巻抄を読む」横山紘一、著、春秋社、2005年

2017年3月21日 (火)

私たちは、壮大で悠久の旅の途上にいる旅人である

 毎日、新聞に出ている有名人の死亡記事欄を見ると、当たり前ですが多くの人々が亡くなっているのがわかります。亡くなる年齢は、様々ですが、生きてこの世に来る人々と対照的になっています。もちろん有名人だけではなく普通の人がそうなんです。亡くなっているのです。生まれる赤ちゃんと亡くなっていく人々の間に私たちの人生があります。ある程度、この人生を生きてくると、それがとても短く早く過ぎて行くことに気づきます。多くの古人がそう言っています。

電車が向こうからやってきて、ホームといわれる人生を過ぎて行く時、ホームから離れて姿が小さくなっていく電車のことを考えていないのが一般の人々の常識のような日常ではないでしょうか。西洋近代文明の影響かもしれませんが、人間は1回の人生で終了です、というのが多くの人の見解です。一つの駅のホームで終わりだと言うのです。でも人生は続いています。ホームの端を過ぎても線路は続き、やがて隣町の駅のホームに着くのです。

そして新たな人生が続くのです。人生と線路と駅のホームを重ねて例えてみました。やや強引な例えかも知れませんがある程度真実を表しているような気がします。人生は壮大で悠久なのです。宇宙の大きさにしても人間の情熱にしても小さな人生では納まりきれないものを感じます。それで哲人ガンディーにしても博愛主義者ヘレンケラーのような人生を深く突き詰めて考えた人は輪廻転生を信じていました。

私達が何度も生まれ変わっては人生に挑戦してより高い意識をめざし前に進めるのは壮大な人生の悠久的な旅人であるからです。鎌倉時代の学僧、良遍は、「法相二巻抄」でそのことについて述べています。現在それを学んでいて、今日の水曜日は良遍の日です。それでは水曜の心の学びです。

2017年3月20日 (月)

私の脳の構造と機能(48)「脳神経は主に脳幹(断面が小鳥にイメージされる)の背の側に脳神経核がある」

 今日は、「神経ネットワークの全体像」(66ページ)の途中から始めます。神経には、中枢神経系と末梢神経系がありました。末梢神経系には、脳神経と脊髄神経があります。脳神経は、頭蓋の中で脳のすぐ近くにも走っていますが、末梢神経系です。脳から12対出ています。脊髄神経は、脊椎の椎間孔から出入りする31対の末梢神経です。これらの先が体の末端にまで届いています。

末梢神経を機能で(働きで)分類すると、体性神経と自律神経に分類できます。体性神経は意識下での運動(随意運動)と感覚を担っていて運動神経と感覚神経となっています。感覚神経は、体表や深部にある感覚受容器の興奮信号を中枢神経に伝えています。と書かれていますがそれはその通りですが多くの誤解や誤りも含まれているような気がします。

運動神経は中枢指令を骨格筋などに伝えています。末梢組織に伝えています。自律神経は無意識下での内臓の動き(不随運動)を司っており、その働きは植物機能といい、これに対して体性神経の働きは動物機能と言われています。自律神経には、交感神経と副交感神経とがあり、お互いが拮抗して働いています。運動神経と感覚神経のルートを見ると流れが反対になっていて、それでバランスをとっています。交感神経は体内を興奮・緊張させ、内臓の機能は抑制させています。副交感神経は体内を安静化させ消化吸収の働きを促進します。

これらが神経ネットワークとして全身に働いていますが、こればかりではなく、神経伝達物質と言われるホルモンのような化学物質も沢山の種類が神経の周辺で働いており体を成り立たせております。次は、68ページの「脳神経の分布と主な働き」に進みます。脳神経は脳幹に出入りしています。12対(左右で24本)ありまして、脳幹の断面図は小鳥の形をイメージできます。頭から尻尾まで、ⅠからⅫまでの番号があてられています。

Ⅰの嗅神経は嗅索に、Ⅱの視神経は間脳に出入りしますが、他はすべて脳幹部に出入りしています。脳幹内には、それぞれの脳神経に対応した脳神経核があります。ですから脳幹は脳神経の中枢としても働いています。脳神経はすべて、頭蓋底面にある孔から頭蓋外へ出入りしています。頭部には、目や鼻、口など、頭頸部特有の機能を持つ器官がそろっています。脳神経のほとんどは、これらを司るため、頭蓋の外に出ると頭頸部に多く分布します。ただ迷走神経は胸や腹に多く分布しています。

それぞれの脳神経は、体性運動神経、体性感覚神経、内臓運動神経、内臓感覚神経、特殊感覚神経、䚡弓神経の組み合わせでできています。

「ぜんぶわかる脳の事典」坂井建雄、久光正、監修、成美堂出版、2011年

(つづく)

«自己申告、自分の内なる智恵の承諾で地前の菩薩になれる