2017年9月21日 (木)

素問を読む(206)

 今日は、「咳論篇第三十八」(339ページ)に入ります。「黄帝が言われます。肺が止むと咳を出すのはどうしてでしょう?岐伯が答えて言います。家、咳を出すのは肺の病ばかりが原因ではありません。五臓六腑の異状がみな咳の元になります。黄帝が言われます。では、そのことについてお話し下さい。岐伯が言います。まず肺咳について申し上げますと、およそ皮膚・体毛は肺の気の集まる所であります。故に皮毛がまず邪気を受けますと肺に伝わります。

また冷たい飲食物をたくさん取りますと胃が冷えます。この冷えが胃から肺脈に沿って上がりますと、肺が冷えてきます。このように邪気が内と外から入って肺に宿りますと、肺咳をなすのであります。同様にして五臓は、各々その司る四時において寒邪を受けて病みますと、病邪の勢いが微である時は、咳を出し、激しい時は下痢をしたり、痛みを起こします。秋にはまず肺が邪を受けます。春にはまず肝が邪を受けます。夏にはまず心が邪を受けます。土用には、まず脾が邪を受けます。冬は先ず腎が邪を受けます。

黄帝が言われます。五臓の咳の区別はどんなものでしょう?岐伯が言います。肺咳の病症は、咳が出てゼイゼイと喘いで音を出し、激しくなると唾に血が混じります。心咳の病症は、咳が出ると心臓が痛み、のどの中がごそごそと棘で引っかかれるように苦しく、激しい時はのどが腫れて食物が通りづらく、のどが痛んで呼吸が困難になります。(つづく)

2017年9月20日 (水)

唯識入門講座で心を実践的に考える(20)

 今日は、81ページの「心の再現する素晴らしい力」から入ります。美術館で「モナ・リザ」を見るとしますと、私の心の中には、その影像が生じます。その影像こそ阿頼耶識(あらやしき)から生じたものだそうです。レオナルド・ダヴィンチの「モナ・リザ」を見て、心の中に再生するのは阿頼耶識だと言うことです。目の見えない人でもそれにかわるものがあるはずです。モナ・リザは見えなくとも、その描かれている様子は、他の人に聞いたり、点字本を読んだりして、阿頼耶識の中に想い浮かべることができるはずです。赤ちゃんの時から全盲でもモナ・リザの香りのようなもの、雰囲気は伝わることができるのではないでしょうか。

言葉通りに「もの」は存在する、その「もの」は心の外に存在すると人びとは、疑うことさえありません。でも私たちが見ているのは心の中にできた影像に他なりません。(眼球の奥にある網膜に投射されて、そこから視細胞によって電気信号に換えられて大脳の景色を認識する部分に行って)美しい景色を見ているような気がします
。美しい景色は、心の中の影像です。この本の著者である横山紘一先生は、「自分の手」という場合の「自分」と「手」という言葉に集中させます。「手」という言葉に対応したものは確かに有りますが、「自分」という言葉に対応したものはないではないかと話します。顔を指して「自分」と称してもそれは「顔」であり「自分」ではありません。

言葉道理に、ものは存在していないようです。「自分」というような、曖昧な表現が日本語の特徴なのかも知れませんが言語道理にものは存在していない例です。「自分」というものは、言葉の響きがあるだけだと横山先生は言います。根源的な言葉として「有」と「無」があります。存在のありようを考える時、あるかないかでしか考えることができません。しかしこの判断こそ迷いを生じるものと横山先生は言います。例えば、ヨーガを修し、禅定に入って、一人一宇宙になって有と無という言葉に意味がないのがわかるそうです。そのような中から唯識論は、生まれてきました。「自分は死んだら有るのか無いのか」のようなことを考えるのは全く無意味であるそうです。

「執着すること」(85ページ)に進みます。言葉で捉えることだけではさほど問題は、ないようです。その言葉で語り、、言葉で捉えたものに執着するのが問題です。若い人なら顔や容姿の美醜に喜んだり苦しみます。あるいは、お金の価値は、私達、現代日本人には、絶対的です。「お金とは一体何か?」と考えてみます。その他にも執着の対象は、数々あります。唯識思想は、そのような執着の対象はすべて存在しないし、無であると言います。(つづく)

2017年9月19日 (火)

左手で診察する

 手を使って診察するのは、現代医学でも東洋医学でも当然のことです。診察の基本です。右手と左手を使い、触診感覚(切診感覚)を働かせながら、診察します。ですから左手だけで、あるいは右手だけで診察するなどは、奇異なことです。ところが病気のために片手が使えなくなることがあります。例えば、脳卒中のためにそのようなことがあり得ます。ピアニストで有名な方が左手でピアノを演奏して聴衆の拍手を得ているような話を聞きます。この人も左脳の脳出血で右半身にマヒがあります。

ですが病名は、同じでも脳卒中は、十人十色で、百人百様です。脳の部位が少しずれただけで致命的な症状を引き起こすからです。発症後、すぐに亡くなる方から意識のないままに植物状態で過ごす方、病後回復し、前と同じようではありませんが、現場復帰を目指す方、現場復帰を果たした方などいろいろです。とにかく私の場合、左手だけで診察を復帰したいです。特に私にとって役立つフィンガー・テストを左手だけで診察したいです。

当面(あるいは一生)患者は、私一人です。左手を(本来、右手で触れる)症状があると思われる所に置きます。例えば、腹や脳(頭部)です。左手の指(本来は、右手の指)を広げ身体につけます。(これをセンサーをつけるといいます。)ここで終わりでは、ありません。健康な時には、左手を振って母指と示指をこすり合わせます。(これをテスターーと言います。)健康な時、私の場合は、左手がミキサーで、右手がセンサーでした。右手で的を狙い、左手で手をふって母指と示指のこすれぐあいを診たのです。

これを両手でなく、左手だけでやるのです。左手のセンサーを患部にあて(あるいは、脈診部にあて)診察する目標を定めます。ここで若干の時間差が数秒、必要です。左手は、センサーからミキサーに変って左手を振って母指と示指の滑り具合を診ます。私の場合、痙縮があるために体の移動に時間と手間がかかるのが難点です。もうひとつ考えなくてはいけないのは、脳出血後遺症者でも《自分の》診察が正確にできるのかという点です。左半身の知覚と運動は、全身が健康な方ほどではありませんがまずまずです。左指の運動も感覚もまずまずです。と言うことは、右脳の働きも大丈夫であるのに違いありません。

それに私は、現代医学や現代科学の一方的崇拝者ではありません。500年にわたるそれらの関係者の努力や働きに深い敬意を持ちます。でも脳がすべてではなく、心という果てしないものがあります。心には、大きさがありません。現代医学的な脳も心に含まれます。その心の根源的な深層の意識である阿頼耶識から良いことも悪いことも、良くも悪くもないことも生まれてきます。

ですから右半身がマヒしていても、根源的心を知り、左手で診察できるなら、ある程度の回復は可能と信じます。そう信じて今日を歩みます。

2017年9月18日 (月)

私の脳の構造と機能(74)「筋肉の程よい固さはは、水晶体が焦点を合わせるように、働いている」

 先週は、「光や色の感知、ピント調節のしくみ」(98、99ページ)の途中まで行いました。色を感知する厚さ0,2mmの網膜のの奥には、錐体と杆体という細長い視細胞がびっしりと横に並んでいます。錐体と杆体は、役割が違っていて、昼間などの強い光には、錐体が反応し、夜の闇などの弱い光には、杆体が反応します。杆体は錐体に比べて片側の目に1億個以上あると言われています。錐体は、片側の目に700万個ほどあるといわれています。錐体は色情報の識別を行っています。光をとらえる物質を視物質といい、網膜の奥で杆体と錐体のふもとの外節の中に大量に含まれています。

杆体の視物質は、ロドプシンと言います。錐体には、ロドプシンに似た3種類の視物質があります。赤、緑、青の光を吸収しています。光を三色分解して感知し、それを組み合わせて色として捉えているのです。これを三色説といいますが、それが完璧に色を説明できるわけではありません。それで反対色説というのが出ましたが、網膜が三つの色を感知していることだけまずは理解すればいいのではと思います。その後は、何らかのしくみで三色を組み合わせて色として感知しているのです。

目玉(眼球)に入ってきた光の屈折については、ほとんど角膜が担っているようです。角膜というのは、目玉の前面の膜で曲率は変化できないようです。そのすぐ奥にある水晶体がレンズの役目をしています。焦点可変レンズです。遠近調節を行っています。水晶体の回りを囲むように毛様体筋の輪状線維があり、水晶体の縁には放射状に放射状線維があり、強膜(眼球を包む膜)と並行に位置する経線状線維もあり、水晶体の厚みを調整しています。

目を休めていたり、遠くを見ている時は、毛様体筋は弛緩し、水晶体は、薄くなります。近くを見る時には毛様体筋は緊張し、水晶体は厚くなります。このような働きによってピントが合った像が結ばれています。加齢とともに老化が、目においても進み、その結果近いところのものにピントが合わなくなります。

「ぜんぶわかる脳の事典」坂井建雄、久光正、監修、成美堂出版、2011年

2017年9月17日 (日)

指試験で自分の心身を診断する

 

指による試験と診断(FT)を例え右半身不随でも実行に移す必要があります。脳出血後遺症の痙性麻痺をやわらげるには、この方法を行おうと思います。右半身が知覚麻痺で運動麻痺で痙性麻痺なのです。中でも痙性麻痺こそが麻痺を複雑化するもので、治ることをまるで夢みたいにするものです。治る現実味がないのです。痙性麻痺に困難を覚える方が、全脳卒中後遺症者の約4割の方々が味わっているらしいです。

そして私個人が自分の麻痺を治そうとする時に、問題になるのが痙性麻痺または、痙縮です。これが鍼やお灸や指圧もやりづらくさせるものはありません。その前に痙縮を東洋医学でやわらげるなんて考えることさえできないと言われそうです。現代医学のように、切ったり、張ったり、注射したり…それは避けたいのです。それしか方法がないのかと私などは、よく思考します。

そんなことはないはずです。東洋医学もしくは、代替医学の中に何らかの答えがあるはずです。人類は、長い歴史の中で現代医学に答えを集約してきました。感染症、救急病、戦争による疾病などには、素晴らしい効果が見られました。それでも慢性病などには、効果が一定しておりません。痙縮に千倍に薄めた食中毒毒素を注射するのは、まだいいとして、脊椎を切り開いて機械のようなものを入れるなどはやめてほしいです。

森羅万象の中には、自然で非観血的な方法があるはずです。ここのところ痙縮が強まり、歩くことさえ危ない感じです。指試験であるFTは、答えを我々に深層意識的に示してくれます。答えを求めずして答えを示します。多くは、夢のような形で示されます。あるいは、そうではないかという答えとは、違う回答が示されます。そのような幾つかの答えと思われるものを試して行けばいいのです。時間がかかるでしょう。諦めないことです。カタツムリのように辛抱強く。

2017年9月16日 (土)

「奇経八脈攷(こう)」を考える(52)「任脈は、人を作り育てる能力に充ちている」

 

今日は、203ページの《参考》「衝脈公孫穴主治歌」まで行いました。衝脈(しょうみゃく)の病症は、胸と腹などの体幹の病気です。その主治は心腹の五臓の疾病で、心胸脾胃の疾病を主治する陰維脈(いんいみゃく)の主穴・内関穴と脾経の絡穴・公孫穴を配合して用いられます。このように広範囲な疾病に主治するので、、中央に位して四方を統治した黄帝の姓・公孫(こうそん)の名で呼ばれるのです。それでは、本文に戻りまして、今日から十一、任脈です。

「(1)任脈は、「陰脈の海」である。任脈は、下腹部の中極(一身の上下四方の中央・臍下丹田)の下方(胞中)から起始し、両陰の間の会陰穴のところから体表に出て上行する。曲骨穴を循り、陰毛の生え際に上って中極穴に至り、足の厥陰肝経・足の太陰脾経・足の少陰腎経とともに腹の内部を並んで進み、関元穴を循り、石門と気海の両穴を経て、陰交穴において足の少陰腎経・衝脈と交会する。

さらに神闕(しんけつ)と水分の両穴を循り、下脘(げかん)穴において足の太陰脾経と交会する。さらに建里穴を経て、中脘穴において手の太陽小腸経・手の少陽三焦経・足の陽明胃経と交会する。さらに上って上脘、巨闕(こけつ)、鳩尾(きゅうび)、中底、壇中、玉堂、紫宮(しきゅう)、華蓋(かがい)、璇璣(せんき)の諸穴を歴巡し、咽喉部に上って天突と廉泉(れんせん)の両穴において陰維脈と交会する。

さらに頤(い)(口角の外下方)に上って、承漿(しょうしょう)穴を循り、そこにおいて手の陽明大腸経・足の陽明胃経・督脈と交会する。そして口唇の周囲に分布し、上唇部から督脈の齦交穴に下行する。そこからまた体表に出て、二支に分枝し、顔面を循り、両眼下部の中央に進み、足の陽明胃経の承泣穴に到達してその巡行を終える。任脈の本穴と交会穴は合計すると二十七穴になる。(李時珍の注)『難経』と『甲乙経』には、ともに「顔面を循り」以下の循行径路は記載されていない。」(続く)

  任脈の総合的な解説でした。任脈の任は、婦人科の妊産婦の妊に通じるようです。お母さんのお腹が大きくなると、任脈のカーブも孤を描き、内側の胞中内に胎児が育っているのがわかります。参照に進みますと、①諸陰の海とも呼ばれます。任脈は、諸陰の領域において水の流れのように大いに気を周流させています。エネルギーや血液や栄養や気を流していているからこそ、10カ月という短時間のうちに人間ができてくるのです。②素問、骨空論篇に「任脈は中極の下から起こって陰毛の生え際を上り、ここから腹の裏に入り、関元から真っ直ぐ上行してのどに至ります。そこから顎を上って顔を通って目に入ります。」とあります。顎(あご)を頤(い・おとがい)と訳すものもあります。

もちろん任脈は、女性だけでなく、男性にも有ります。「中極の下は、即ち胞宮(胞中)の所で、任・衝・督の三脈はみな胞宮より起こりて、会陰の間に出るなり。」と『脈経』の注にはあります。中極穴(恥骨結合上縁が曲骨で、その上1寸上で正中線任脈)は、体表の穴であるとする見方もあるが、下腹部内の下丹田(四寸四方)と見るのが順当であるようです。③横骨―ここでは、穴ではなく、恥骨を指すようです。④中極―上記したように下丹田の中枢を指すようです。ツボとしての中極穴は、『甲乙経』によりますと「足の三陰と任脈の交会穴」です。後は、来週土曜日に行いましょう。

「奇経八脈攷全釈」李時珍、編著、小林次郎、訳注、燎原書店、1991年

2017年9月15日 (金)

心の治癒力を研究する(52)「感情を癒すことが最大の病気を癒すことにつながる」

ただ今は、「第八章、癒しの瞑想」の中から、感情を癒す瞑想の十二(185ページ)まで行いました。そこは、「十二、癒しと愛の光の中で他者と交わる」をもう一度、行いましょう。誰かが自分に対して不公平で厳しい態度を持ちつづけていると、自分も嫌悪や怒りに栄養を与えてしまい破壊的な感情に陥ってしまいます。それでは、一般の方と何ら違いはありません。本来は、どのような方であれ親切な善人なのだと見るようにします。本当にそう思っていなくてもいいようです。仏教では、最も親切で優しい恩義あるものは、「母」であると考えられているそうです。

本来は、親切で優しい母のような存在が、無知と病によって明晰な視力を失い、煩悩によって傷めつけられていて苦しんでいるそうです。そのような人が(自分を含めて)地獄のような世界を作り出して健康を危機にさらしているようです。忍耐と慈悲の修業によって、心はより強く、落ち着いたものになるようです。ですから残酷であろうが、不公平であろうが、自我を解き放ち、本当の真実の霊的な成長の機会を与えてくれる修行に感謝し、忍耐強く、慈悲多い人となるチャンスを与えてくれるものなのです。

このような慈悲の気持ちを起こしたら、暖かく白い癒しの光の雲がじぶんの身体から出ていって敵に触れると観想します。その光が触れるだけで相手の身体、心、意識は、幸福に満たされます。その人は、想像したこともなかったほどの平和と喜びの感覚に驚嘆します。現代ほど、損得勘定で生きている時代も少ないように思えます。だから、バカボンのパパのような人や本当のお人よしや馬鹿まじめのような人には、まるで価値がないと言われるのです。本当の宗教心を抱いた人は、そうゆう面があります。進んで馬鹿になれます。それから慈悲の温かさがそれ以外の人に向かっても輝きだし、宇宙全体が温かさで満たされます。これを慈悲の瞑想といいます。

また力の源泉から敵も我にも光が送られ、両方とも光で平和に満ちます。感情的な苦痛は、癒され、心が静かに落ち着きます。負の感情に盲目的に動かされることもなくなります。両者の間に平和と喜びが湧きあがります。

「十三、恐ろしい夢を浄化する」に入りましょう。悪い夢を見るのは心のエネルギーが解放されることだから別段悪いことではないようです。ひどい悪夢をくり返して見る時には、瞑想の中でそのエネルギーを浄化することができるようです。まずどのような悪夢でも心によって作り出されたもので、無害であると知ることが有益です。力の源泉から癒しの光が放たれ、夢のイメージに触れ、悪いイメージが良いイメージに変わります。夢の中で、誰かに追いかけられる時も癒しの光に触れ、直面すればよい。平和で楽しいイメージに変えられるのです。

「十四、神経症的な症状をやわらげる」に入ります。幻覚、悪い兆し、異様な感情、極端に神経症的な症状など悩まされ、苦しんでいる人が多いようです。極めて破壊的な神経症的な症状でも障害でもやさしく対応するのがいいと、トゥルクさんは言います。友人や賢明なカウンセラーからの助けそして癒しの瞑想も助けになり得るそうです。まずは、今自分が味わっている体験は、偽物であり、心の作り物であり、何かの投影であると理解します。この確信だけでも苦しみは、軽減します。(今週は、ここまでで来週に続きます。188ページ


「心の治癒力―チベット仏教の叡智」トゥルク・トンドゥップ、著、永沢哲、訳、地湧社、2000年

2017年9月14日 (木)

素問を読む(205)「今、全身のどの辺に寒邪や熱邪があるかを症状は示す」

 現在は、「氣厥(きけつ)論第三十七」を行っています。337ページの5行目からです。「次に熱邪(ねつじゃ)の場合を申し上げますと、熱邪が脾(ひ)から肝に移動しますと、神経過敏となってものに驚きやすくなり、鼻血が出やすくなります。熱邪が肝から心へ移動しますと、心は最も熱を嫌う臓気ですから死亡します。万が一、軽くて生きのび、熱邪が心から肺に移動しますと、膈消(かくしょう)という横隔膜のあたりに熱を持って飲食が旺盛(おうせい)になりしかも痩(や)せてゆく病になります。

熱邪が肺から腎へと移動しますと、柔痙(じゅうけい)と言って、発熱し汗が出て悪寒のしない痙攣(けいれん)病となります。熱邪が腎(じん)から出発点の脾に再び移動しますと、すべての臓気が虚していますので、激しい下痢をおこして死亡します。これを治すことはできません。また熱邪が六腑間(ろっぷかん)に移動するときは、胞(ほう)に熱邪を発して膀胱に移動しますと、隆と言って小便が出なくなり、出る時は尿に血が混じります。

熱邪が膀胱から小腸に移動しますと、膈腸(かくちょう)という病になって大便が出なくなり、熱が高くなって口がただれます。熱邪が小腸から大腸に移動しますと、腹の中にかくれた塊(かい)を生じるか、奥深いところに痔を生じます。熱邪が大腸から胃に移動しますと、よく食べるのに体は痩せます。これを食亦(しょくせき)と言います。熱邪が胃から胆に移動しますと、また食亦を起こします。

熱邪が胆から脳に移動しますと、鼻筋が痛んで鼻淵(びえん)をおこします。鼻淵とは濁った鼻汁が流れ出て止まらない病です。そしてだんだんと鼻血が出て目がまわったりするようになります。ここまで述べましたのは、五臓六腑の間を寒邪や熱邪が移動するときの様子ですが、このようなことがおこるのは、経脈の気が正常に運行していないからです。」

全身の末端までかけめぐっています経脈のどの辺に停滞が起こるとどのような症状が起こるかを考察した文です。停滞を起こすのは代表的なものは、寒邪と熱邪です。これで気厥論篇第三十七を終わります。来週は、「咳論篇第三十八」に入ります。

「素問・新釈・小曽戸丈夫」たにぐち書店、平成18年

2017年9月13日 (水)

唯識入門講座で心を実践的に考える(19)「すべてを治せる可能性を阿頼耶識は秘めている」

 心について考えると言っても、心が何でも正しいわけではありません。心には、正しいこと、悪いこと、正しくも悪くもないことなどが考えられます。先週、習った「三性」つまり心が変われば「もの」のありようも変わる、の中から「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」を考えてみます。言葉で外界に実体として有ると考えることです。私たちの心の中には、素材だけが放り込まれます。それが心の中で、組み合わされて言葉や思いに修飾されて、実体としてあるように考えられ、「もの」に変わります。

言葉や思いや思考が現実には、あり得ないものでも「もの」に変えられていくと言います。例えば、「憎い人」という言葉を発することによって、本来、何でもない人が憎く変わります。あるいは「あの人は憎い」と思ったり考えることによって、その言葉は心の内で強められます。逆に「憎くない、憎くない。」と繰り返し言い続ければ、憎い思いは和らぎます。もう一つのことですが憎いと発する言葉だけで、憎い思いはないと言えます。横山先生の見解では、小中学生のいじめでは、単に「うざい」などの言葉がやりとりされて、思いがない場合もありますとのことです。

著者の横山先生も話しておられるように、言葉が氾濫する時代で、言葉が持つ力なり、働きをしっかり理解する必要があります。「憎い」という感情や思いがどこから生じたのかと問えます。それは「唯識」では、そうしたものが潜在していたのは深層心であり、根本心であると言えます。つまり阿頼耶識です。前にその人といざこざがあり、その人を憎いと思ったことがあったのかも知れません。その出来事は、阿頼耶識に植え付けられます。経験などの表層心のありようは深層心に影響を植え付けますが、植物の種子に例えて「種子(しゅうじ)といいます。

またその人のイメージを思い浮かべて、憎いという思いが再び芽を吹きます。生まれてからこのかたの無料無数のすべての経験が阿頼耶識に種子となって潜んでいます。このような深い心の知識を追い求めて玄奘は、砂漠や高原や山脈を越えてインドに行ったのです。言葉も思いも深層の阿頼耶識から噴き出してくると言います。阿頼耶識は、大きさもないし重さもないようです。そして心の土台を作っているものです。これは、一人の阿頼耶識でしょうか。そうであるとも言えるし、人間全体の阿頼耶識とも関係しているとも考えられます。

様々な経験や聞いた言葉、読んだ文章の言葉などが阿頼耶識の中に潜んでいます。あるいは前世や前前世などの経験が記憶はなくしているにも関わらず何となく香りとして匂ってきます。その言葉ではなく、香りのようなものは直観でわかります。著者、横山先生は、それだけではないんだ、と言います。思いや言葉だけでなく、一人一宇宙のすべての現象を生ずる種子(潜在的可能力)が阿頼耶識の中にありますと断言します。このため阿頼耶識を一切種子識ともいいます。

脳出血後遺症による痙性麻痺を受けている最中の私には、このような希望の言葉が信じらません。痙性麻痺が治って治療師と生きている姿が…。いや、私はそれを信じます。潜在的可能力は、私の中にもあるのです。誰の心の中にも潜在的可能力としての阿頼耶識は、あります!(81ページ)

「唯識入門講座で心を実践的に考える―本とDVDで考える本当の生き方」横山紘一、著、大法輪閣、2010年

2017年9月12日 (火)

鍼灸師でありながら、唯識論を研究するのは、理にかなった行いである」

 

 私は、かって鍼灸マッサージ師でありました。脳出血後遺症のために現在は、治療はできないまでも、法的には鍼灸按摩師であることは変わりありません。6年近くブログを続けているのもこの職業に誇りを感じているためです。鍼灸師としては、腕の悪い鍼灸師でした。おまけに知識も少ないし、黙って余生を楽しめと言われてもそうはいかないのです。経済を保証する国民年金も気付いたときには、後24年しかなく、年金をかけることができず、市役所の職員にあきらめなさいといわれたのです。最近の法改正で年金の支払いが10年となっても、すでに働いて埋め合わせることができません。

自分のことはいいとして、日本の鍼灸の歴史のうち、千年は、仏教僧が行ってきました。お坊さんたちが医法明という仏教医学の教えに基づき宗教と医学が一体となって励んでいました。仏教の唯識論は、日本仏教では、皆が学ぶ基礎学として教えられたようです。心の教えですから当然そうなる所以があったのです。ですから唯識論と仏教と鍼灸按摩には、深い関わりがあるはずです。ところが兄弟のような関係深いものが、ただそのまま歩んだのが今の姿です。仏教と東洋医学には、直接結びつくものは見当たらないと見られています。そうでしょうか。東洋医学で欠けているように思われるのは、深い心についての知識です。

今日の言葉で言えば、深層心理学です。それも西洋の深層心理学ではなく、西暦3,4世紀頃から続いているアジアの深い心の知識と実践です。この唯識学は、古くはインドで起こり、玄奘三蔵の苦難の旅でインドから唐へもたらされ、長安にいた晩年の玄奘のもとで勉学に励んでいた日本の留学僧が帰国するとともに奈良のお寺にもたらされました。それ以来、日本では、唯識学があらゆる宗派の学ぶ基礎学としてお坊さんたちによって学ばれてきたのです。ほぼ同じころ、鍼灸按摩や漢方薬も日本に入ってきたのです。そしてそれを担っていたのが、医方明を行っていたお坊さんなのです。

末那識(まなしき)や阿頼耶識(あらやしき)は、心の深い心です。特に阿頼耶識は、身体を作り出し、それを有機的・生理的に維持していると唯識学では、発見したのです。ですから、鍼灸師は、現代西洋医学を学ぶとともに阿頼耶識を空想のものとするのではなく、また宗教的なものとして毛嫌いするのでなく、素直な心で学んでいくことが何より必要です。私は、脳の中心部にある視床付近をあふれ出た血液で脳細胞の一部を壊死させてしまいました。この回復にも阿頼耶識の知識が当然必要です。でも現在のところ阿頼耶識について深く学んでいません。表面の皮一枚も学べていないといったところです。

ですから余生を楽しめと言われても、楽しむことなどできないと言えます。逆にこれほど大きな課題があれば、存分に余生を楽しめます。阿頼耶識の働きの中の一つは、輪廻の主体となることとあります。ですから今現在苦しくともこれも輪廻の中で業を消しているだけなのだと思います。

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